第6話 つなぐ壁 前半戦完結
登攀第5日目 2022年9月24日 メンバー 片山/折口/橋本
まだ台風14号の爪痕が残る県道7号線。通行止めで九折登山口まで行けるかわからず、前日23日に妻と子を連れドライブがてら様子を見に行く。土砂が流れた跡は随所に見られたが、登山口までは問題なく通れるようになっていた。山手本谷は台風の豪雨で洗われたのか、岩は白く、水はエメラルドグリーンに美しく輝いている。
翌24日早朝。折口にピックアップしてもらい、竹中で橋本と合流。九折登山口には05:00頃到着した。そこから例の林道を使い、山火事注意の登山口まで車で向かう、
はずだった。
しかし林道に入って間もなく異変に気が付く。つい2週間前はポルシェでも走れそうなほどきれいだった林道は見る影もなくえぐれ、あれだけ美しく整備されていた林道が、ものの数週間できれいさっぱり元の荒廃林道に戻ってしまったのだ。
自然の力はあまりに強い。
車で林道を上がれたのは一回だけだった。
結局、車を九折登山口に戻し、仕切り直し。今回は紅葉バンドで一泊し、稜線まで出る計画。ホールバックにビバーク装備を詰め込み、重量にあえぎながら、いつものアプローチを行く。林道は荒廃していたが、心配した南坊主沢は大した被害はなく、問題なく壁の基部に到着した。フィックスロープも無事の様だ。
早速ユマーリングにかかろうとフィックスロープを手繰り寄せる。すると見覚えのないジップロックがロープ括り付けられている。
中に紙が入っている。
まさか、遭難者からのメッセージか?
はたまた管理者からロープ撤去の命令か、、
我々以外数十年来、誰も来てないと思っていたこの場所で、他人の気配を感じ鳥肌が立つ。
しかし、それはすぐに感動へと変わった。
紙は台風で濡れボロボロになっていたが、奇跡的に文面は残っている。
「親愛なるひも野郎へ ここを登っていることに心より敬意を表す。いつか会える日を楽しみにしています。W&T」
どんな時も誰かがきっと見てくれている
こんな粋な手紙をもらったのは人生で初めてである。たまたま訪れるような場所ではない。この手紙を置くためにわざわざこんなところまで登ってきたと考えるのが妥当である。大した実績もなく、ただ物好きなだけの我々の登攀を、見てくれている人がいる。恐らくは1970~80年代にこの壁に挑んでいた往年のクライマーのどなたかであろう。
あまりの感動に再度鳥肌が立った。完登した暁には必ず会いに行こう。そして色んな話をしよう。
この壁を登ること。
それがこれまで以上に熱く重いものに変わった。
さあ行こう!
まずは1,2ピッチのユマーリングとホーリングだ。慣れないホーリングに時間を取られながらも、何とか2ピッチ目終了点へ到達。すでに12時を回っている。
遅れを取り戻すべく手早くギアを整え、3ピッチ目の登攀を開始する。小ハングで上の様子はわからないが、草が一直線に右上しているので、きっと何かある。
しかし、その予想は大いに、大いに甘かった。
出だしのハング越しは問題ないが、ハングから上へ伸びる草付きまでのトラバースで早くもストップ。細かくバランシーなこの数メートル。10mmほどのカチを数メートルつないだ先に、めぼしいホールドは見えない。
加えてプロテクションが取れない。
早々にスカイフックに体重を預け、あたりを探る。リスに手当たり次第にハーケンをたたくが、どこも5mm程でハジキ返される。小さな割れ目にトーテム黒が片刃だけ入る。止まるはずのないカムで気持ちを落ち着かせ、何度か次のホールドへ足を延ばしてみる。
しかし、乗り込んだら最後、もう戻れない。その先は、ロシアンルーレット。恐ろしくて乗り込めない。しばらくもがくが、諦めてボルトを打った。
しかし、これはまだ序の口だった。数メートルトラバースし、例の右上する草付きを見上げ、愕然とする。確かに、草の下に窪みはあるのだが、とてもクラックとは呼べない代物だ。草をはがしてみても、段差がある程度で、リスも薄い。
試しにハーケンをたたいてみるが、1cm入れば良いほうで、引っ張れば簡単に抜ける。中盤にはポケット状の穴もありそうだが、それも草を剥ぎ、泥を掻き出してみないとわからない。とても片手で保持しながらできる作業ではない。
その怪しい窪み以外はあまりにも平で綺麗な垂壁。左上する細かなホールドを拾うラインも取れそうではあるが、そこにはもはや窪みどころかリスも無い。先のハングで詰むことも予想された。
お手上げだった。
1,2ピッチは怪しいプロテクションでも落ちずに登れるだけのホールドがあった。ここは違う。確実に落ちる。この先にフリーで突っ込める技術も精神力も持ち合わせてはいなかった。
ここにきて、この壁の真の姿を見た気がした。
一旦降りて別のラインを探るべきか。
しかし、ここまでも弱点を突いてきているし、ここ以外に弱点は見当たらないのだ。
そうなると前進手段としてのボルトを打つか、撤退か。
どれくらいの時間悩んだかわからない。これ以上時間を無駄にはできない。泣く泣く前進用ボルトを打つ決断をくだす。
本来なら撤退して、力をつけて挑むべきなのかもしれない。しかし、ここまで来て下降できる程、私はまだ成熟したクライマーではなかった。
何がなんでも先を見たい!
せめてもの理由付けとして、ボルトを打つにしても、岩が示してくれたラインであること、フリー化が可能なラインであること、そして、カムやナッツがとれるところには打たず、最小限にとどめる。という勝手なルールを作り自分に言い聞かせた。
例の窪み沿いに1発目のボルトを入れる。アブミを掛け、更に上の草をはがして土をほじくる。小さな窪みが出てきたので、トーテムの黒を入れてみる。片刃だけ決まる。
確かトーテムは片刃でも静荷重は大丈夫だったはずだ。
慎重にテストしてそっと乗り込む。大丈夫そうだ。さらに上の草をはがす。何も出ない。止むなく、ギリギリの高さにボルトを入れようとハンマーを手にした瞬間。
パンっと軽い音がして体が宙を舞う。
一瞬で折口の頭のすぐ上まで降ってきた。ブレードが泥で滑ったのか。まったく予兆がなかっただけに恐ろしい。
息を整え、最後のボルトの場所まで上がる。同じ場所に同じカムを入れ、再度立ち上がる。いつ抜けるか、次元爆弾のようなカムの恐怖に耐え、更にボルトを一本打つ。
そしてさらに上へ。
ここからは同じことの繰り返しだった。
草を抜き、片刃のトーテムに乗り込み、更に上の草を抜く。そしてまた片刃のトーテムが抜け数メートル落ちる。さぞシュールな映像だったであろう。
4本目のボルトに乗り込んだ時、ふと、下の二人のことが頭によぎる。もう何時間も足場の良くないビレイ点で動くこともできず、自分のフォールを支えてくれている。何といい仲間を得たものだと。頭上のボルト打ちで腕はパンパン、足の指先もズキズキするが、泣き言など言ってられない。
あとは右手に5~6メートル程トラバースすれば終了点にできそうなレッジがある。こっちにおいでと言わんばかりに、平行にホールドも続いている。
意を決し、トラバースに入る。手はガバなのだが、足が細かい。背負った山ほどのプロテクションとドリルセットが体の動きを鈍らせる。
何とか右手が届く位置のガバをつかみ、慎重に体重を移動する。左手で耐えつつスカイフックをひっかける。体重を入れるとフックが少しずれ、肝を冷やす。
体制を整え、ボルトを打つ。
最後のボルトにプロテクションをひっかけ、ドリルだけを背負い、かなりバランシ―な3~4mほどをフリーでこなす。右手にかけた草付きが抜けそうで動きが止まる。草が抜ける前に、左手を小さなカチにデットする。こういう時の人間の集中力は驚くものがある。6㎜程のカチが文字通りカチッと止った。
レッジに這い上がり、しっかり立てた瞬間は、正に精魂尽き果てた。
しかしのんびりしている時間は無い。手早く終了点を設置し、ビレイ解除のコールを送った。瞬間、下から、「ナイスクライミング!」と声が返ってきて思わず眼がしらが熱くなる。いやいやそれは完登後にとっておこう。
随分待たせた二人が登ってくる。足元はどこまでも切れ落ち、すさまじい高度感。バックには祖母山が顔を覗かせる。九州とは思えないものすごい景色だ。それに溶け込むクライマーがまたかっこいい。ややこしいトラバースを折口が器用にあがってくる。橋本もまたバランシ―な体制で最後のヌンチャクを回収し上がってきた。そして荷揚げ。いつの間にか、16時を回っていた。
しかし寝床を得るにはあと1ピッチ延ばさないといけない。次のピッチは折口に託す。下からの見立てでは、下部は概ね登りやすそうな形状。中盤のコケっぽい薄被りの5m程が核心のように見え、その先はブッシュに突っ込む。時間があれば左上し、一段上のバンドに出たいところだが、いかんせん。前のピッチで誰かさんが時間とボルトを使いすぎた。ボルトの残数は5本。一時間もすれば暗くなる。こんな状況でも「行きます!」と気合十分の折口。なんとも頼もしい。
すでに薄暗くなった壁を折口が登る。相変わらずプロテクションが悪いようだ。5m程上がるが何も取れず、一本ボルトを入れる。その先も微妙なカムでごまかしながら、核心と思しき箇所へ突入する。辺りはもう真っ暗。ヘッテンを頼りにプロテクションを探すが、見当たらない。やむなくシビアな体制でボルトを打つ。途中ビットがつぶれて入らなくなり焦る。予備のビットに交換し、なんとかボルトをたたき込んだ。
暗く先が良く見えない中を進んでいく恐怖がいかほどかは、想像に難しくない。暗闇のなかヘッテンの光が揺れる。じわじわと光は上へと移動し、次の瞬間、暗闇に咆哮がこだました。やったか!光がブッシュに消え、間もなくビレイ解除のコールが聞こえた。見事だ。
早速ユマーリングで後を追う。やはり、下から見るより壁はシビアだ。よくぞ登ってくれた。ブッシュ帯まで登り、急いでホーリングを開始。時間が無いので、1/1で上二人が一気に引き上げ、橋本が登りながら引っ掛かりを外すサポート。随分慣れてきたものだ。3人の息も格段に合ってきている。気分が高まり、荷揚げのリズムに合わせてソーラン節を大声で歌ってみたり。
時間は19時。辺りは真っ暗だが、この一体感はたまらない。
どうにか荷揚げが完了したが、まだまだ行動は終わらない。ブッシュの傾斜が予想より強く、寝床が見つからないのだ。やむなく、ブッシュ内の悪いルンゼをずり上がり、更に上を目指す。交代でリードと荷揚げをこなし、更に80mほどロープを延ばしたところでようやく一息付けそうな洞窟を発見した。狭いが、3人が縦に並べば何とか横になれそうだ。荷物を入り口につるし、洞窟へと転がり込む。
時間は22時。2時に起きてからろくに飯も食べていない。喉もからからだが、みんないい顔をして笑っている。タフな奴らだ。
早速苦労して持ち上げたホールバックから酒を取り出し、乾杯。ぬるいビールが最高にうまかった。一缶飲んでフリーズドライを食ったら、程よく眠気が襲ってくる。そのまま吸い込まれるように寝てしまった。
登攀第6日目 2022年9月25日 前半戦完結
翌朝、洞窟の入り口から朝日に燃える祖母山を望む。改めて見回すとなかなかとんでもない場所で一夜を明かしたものだ。先人達もこの場で夜を明かしたのだろうか。
朝飯を簡単に済ませ、一杯のコーヒーで気持ちを整えたら、荷物をまとめ、稜線を目指す。当初の予想に反して、ボルトをほぼ使い切ってしまったので、本日は先の壁を偵察しつつ、ブッシュ沿いに稜線を目指す。
昨晩寝床が見つからず、詰めあがったおかげで、さほど時間もかからず稜線の登山道へと飛び出した。予定の登攀ラインは2~3ピッチ残しているが、とりあえず壁を抜けた。
春先からじわじわと高度をあげ、ようやくここまでたどり着いた。長かった。無事壁を抜けた安堵感と達成感から自然と笑顔があふれる。
ここで一旦前半戦を締めるとしよう。
後半戦は時間と体力の勝負になりそうだ。壁の難しさもさらに増してきそうな予感がする。しかしここまで来たならやらねばなるまい。
大丈夫、このチームは格段に強くなっている。頼もしい2人の仲間と並び、決意新たに坊主尾根を踏みしめる。
・・・・前半戦 完・・・・
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